【毒母介護】体験談を寄稿していただきました。

母の病気が分かったのは私が高校2年の秋頃でした。

自営業をしていた父の会社の経理を任されていた母が、当時給料計算などで使っていた大事にしていたそろばんで給料計算をしている時に指先に力が入らないと言うようになったり、ボールペンを持つ手が時折震えることから脳の疾患を疑ったことが始まりでした。

 

父親が病院へ連れて行くと、母親はパーキンソン病と診断されました。当時母は58歳、父は62歳でした。パーキンソン病とは高齢者に見られる脳神経の疾患ですが、60歳以前で発症するケースは少ないことから、若年性のパーキンソン病と診断を受けたのです。
パーキンソン病はメンタル的な症状も見られることが多く、母もまた鬱っぽい症状に悩まされるようになっていきました。

父は母の体調悪化を心配していつもこういいました。

「お前はお母さんの面倒を見るんだよ。女の子なんだから。」父にそう言われ続けたからか、自分の将来に明るい未来はないような気がしていました。母がパーキンソン病になる前から、私は母の支配と依存に苦しみ始めていました。
母が病気になったからと言って、そのまま母の看病をしなくては、という気持ちにシフトすることすらできなかったのです。
当時の私は、いつも母の愚痴や不満のサンドバッグになりながら、

 

『お母さんの面倒なんて見たくない』
『親子の縁を切ってもいい』

と思うほど、母のことが大嫌いで、逃げたい気持ちでいっぱいでした。兄は兄で、母の異常な可愛がりや束縛にうんざりしていて、家を出て地方の大学に進学していました。
『あなたは女の子なんだから家を出て一人暮らしは許可できない。』
という両親に益々自分は母から逃れられないと感じていたのです。
私が学生の頃は母の介護のメインは父親で、自営業の仕事の合間に母親の介護をしていました。

 

私は、母の調子が悪いときや父親の仕事が忙しいときは、家事をしたり、トイレへ連れて行くなどの介助をしていましたがまだ母は体調が良いときは自分のことや家事も多少はできていたのでそれほど介護の大変さはありませんでした。でも、元々鬱っぽいところがあった母は、ありもしない妄想をして私の人格を否定するようなことを毎日のように言うようになりました。

 

私はそんな母親のいる家へ帰るのが嫌で、わざと学校帰りに寄り道をしたりして帰宅時間を遅くすると、母は怒り出し体調が悪化することも度々ありました。
『あんたが私に心配かけてばかりいるから私は辛い。もうあんたの前で死ぬから』
と、自殺未遂を数回繰り返すこともありました。
その行動はアピールとも思えるような行動で、電気コードを首にぐるぐる巻きにして首を絞めようとしたり、ハサミを喉につきつけようとします。

 

後々知りますが、自分で力を入れて自殺を出来るような握力も、病気のせいでなくなっていたので、出来るはずがないのです。
自殺はいずれも未遂ですが、パーキンソン病の症状で、メンタルが落ちると、延々と私の外見や性格の欠点をあげ、気に入らないことがあると、
『あんたのせいで私はパーキンソン病になったんだよ!』
と言います。母に罵られることのほうが辛くて死にたくなることもありました。

 

両親はいつも仲が悪く、母がパーキンソン病になる前から、いつ離婚してもおかしくない
ような不仲さでした。幼いころは母に叱られると父は私をかばってくれましたが、母親がパーキンソン病になった途端、父親は母親の味方をするようになっていったのです。

父はいつも
『お母さんに心配をかけるなよ、病気が悪化するから』
と言い、私が少しでも母に反抗的な態度をとると、母と一緒になって私を責め続けるようになりました。私が幼少期から母から受けてきた暴言や、酷い態度の数々は、父がいないところで行われてきたので、それを知らない父は、私が母に暴言を吐き、そのせいで母を追い詰め、苦しめていると思っていたのです。

私は何度か父親に話を聞いてもらおうとしましたが、「親をそんな風に言うもんじゃない。もっとお母さんに優しくしてあげなさい。」
と怒られるため、そのうち理解してもらおうとするのを諦めていました。
私は二度の結婚歴があります。その最初結婚は26歳でした。その夫との間に2人の男の子を設けています。住まいは飛行機で移動しなくていけない距離にあり、その頃は、いわゆる遠距離介護でした。元夫も義母も、私の母親の介護には理解があり、夏や冬などに長く帰省することを、いつも快諾してくれただけでなく、義母からは『お母さんが体調が悪いときはいつでも帰りなさいね。』と言ってくれるほど優しい義母でした。

 

いつも幼い息子たちを連れて帰省する時には、日中の数時間はベビーシッターを利用して母親の介護を担っていました。この頃の母は、転倒して肩を骨折してから、車いす生活になり、筋力も一気に落ちて、食事だけでなくトイレや入浴の介助も必要になっていたのです。入浴介助は父親が中心にやっていたが、父も次第に体力的にしんどくなると、今まで介護保険を使うのを嫌がった母はしぶしぶ納得し、介護保険を申請し、ようやくヘルパーの手を借りることが出来るようになりました。

 

初めて申請したときはすでに要介護3でした。そんな状態だったので父の負担も考え、ケアマネからデイサービスの利用を勧められるようになっ
てからは、ヘルパーとデイサービスに介護の一部をお願いすることが出来るようになりました。

 

私の結婚生活は長くは続きませんでした。夫の借金や浮気などが発覚し、離婚に至ってしまったのです。長男が6 歳、次男が2歳のときでした。
実家のある土地に戻ると、実家の近くに引っ越し、保育士として働きながら、シングルマザー、ダブルケアラーとして生活をしていました。

 

それから約5年後、介護福祉士の資格を取得し介護施設や障害者施設でヘ働いている時に、職場の上司と再婚するのですが、この生活も長くは続きませんでした。モラルハラスメントに悩まされるようになったのです。
日に日に暴言が酷くなり、約3年で別居、その後調停を経て離婚しました。

 

 

母は、シングルマザーになった私に『2度も離婚して恥ずかしい。あなたがわがままばかり言うから旦那さんも嫌になっちゃ
ったんじゃないの!?』

 

と、全く理解してはくれませんでした。
1度目の離婚をして地元に戻ってきたときも、両親そろって『恥ずかしいから、周りの人にはお母さんの介護で長期帰省してることにしておいて。絶対に離婚したことを言わないように。』
と、親戚にすら隠そうとしました。
特に母は毎日のように元夫の携帯に電話を入れ『娘が悪かったのです。どうかヨリを戻してください』
とストーカーのように電話をかけ続け、そのうち元夫は携帯番号を変えたほどでした。

 

そんな母の支配は次第にエスカレートしていきました。
私が仕事中だろうと夜中だろうと関係なく、毎日のように携帯で私をを呼び出したり、電
話口で急に思い立ったように過去の私の言動に対しての説教が始まったりするのです。
母は、こちらの事情などおかまいなしに、ヘルパーさんや父に頼めないようなことを
『今すぐ来てやって!』と私に頼んでくることも多々ありました。
私が

『仕事中だから』
と言うと
『わかった!もう私は死ぬから!』

と脅してくるので、とうとう私はうつ病と摂食障害、パニック障害になり、精神安定剤や
睡眠薬が手放せなくなってしまうまで追い詰められていました。

 

母は子供である私に感謝の気持ちを伝えたり、自分が間違った言動をしても謝るということはしない人でした。母の口癖のひとつで『自分の子どもに謝ったり感謝したりする親がどの世界にいるの!あんたが私の面倒を見るのは当然!』
と言っていました。

 

母は父にも私のことをわがままだとか、子どもたちをちゃんと育ててないとか言っているようで、父からも説教をされることも度々ありました。
当時下の子は発達障がいのグレーと診断され、療育施設や、発達外来などに通院していたのですが、それすらも母は、私の育て方が悪いからだと言われました。

『あんたの育て方が子供たちをかわいそうな子にしてしまう。』
と言われ続け、子供たちの前では
『あなたたちかわいそうにね、ひどいお母さんに育てられて。』

と言うこともありました。そんな子供たちの前で、私は絶対に母のことを悪く言うことはしないと心に決めていました。私が母のことを悪く言うことは私の問題、子供たちには全く関係のないことだと割り切って考えていたからです。

 

ただ、母にはもう二度と子育ての相談はしないと決めていました。
そんなある日、私はとうとう精神的に限界が来てしまい、唯一大好きだった父にすら私を理解してもらえない苦しさから父の前で壊れてしまいました。
父には、母の介護や子育て、夫によるDVや離婚調停、シングルマザーになったことへのプレッシャーなどから私が鬱になったこと、摂食障害になったことを打ち明けてはいましたが、いつも

『気持ちの問題だ!今の若い者は弱くてどうしようもないな、ちゃんとしろ!』

と笑いながら言われ全く真剣に耳を傾けてはくれませんでした。そして、私が幼少期から母との関係性に悩んで苦しんできたことを訴えても、『お母さんのことを悪く言うな!お前が我儘ばかり言ってお母さんを困らせているだからだろう!』

と全く取り合ってくれず、さらに、下の子の発達障害のグレーのことに対しても、『自分の子を障害児扱いするな!』
と私の言うこと全てを否定し、理解しようとしてくれないことに我慢が出来なくなったのです。

私は今、父の目の前で死んでやろう。父が今言ったことを、私が目の前で死ぬことで一生後悔させてやろうと思い、包丁を持ち出し、父の前で大暴れしてしまったのです。
すると父は今まで見たことのない私の姿にとても驚き、娘を否定し続けてきた自分の言動、鬱になるまで追い込んでしまったことを泣きながら謝ってくれました。
このときから、身内に味方がいるという心強さや安心感が芽生え、母の介護を前向きに行うことが出来るようになりました。これが無かったら多分今、私はこの世にいなかったと思います。

 

その後、母の病状は進行し、2017年12月末、療養型施設に入所し、昨年の2019年1月31日に、誤嚥性肺炎で亡くなりました。
母が亡くなったときは、悲しみもありましたが、正直ちょっとほっとしました。子育てをしながらの介護の中で、私はいつも早くこの状況から抜け出したいと、常に思っていました。
いつも母は、私が介護している最中に、じっと私を見て、私にダメ出しを始めます。2度の離婚や子育てなど、とにかく毎日必ず文句や説教を言い、自分の娘だから何を言ってもいいと思っていたようです。体力的な介護よりも、精神的に母に振り回され、逃げ場がない状況の方が死ぬほど辛いと感じました。そのせいで私はうつや摂食障害にもなり、生き続けることを諦めようと思ったことも何度もありました。

母とは何度も言い争いをしていますが、自分が不利になると『死んでやる!』と死をほのめかし、私が折れるのを待っているのです。そんな時、不謹慎にも『早く死んでくれないか』と何度も思いました。

ヤングケアラー、ダブルケア、遠距離介護、私は今現在介護を取り巻くこれらの言葉にすべて当てはまるような経験をしてきました。母亡きあとにこれらの体験談を発信しようと思ったのは、介護は密室で行われる誰も立ち入ることのできない環境であるからです。

 

その密室の中には、私のように毒親の介護を余儀なくされながら、苦しみもがき、もしかすると、自らの命をも断とうと考えている方がいるかもしれない、親を殺めてしまいそうになっている介護家族がいるかもしれないと思ったからです。

 

私に何が出来るかわかりませんが、せめて、経験談をありのままに発信することで、誰かの何かのお役に立てるのでは?そう思っています。介護は家族の本音の場であり、親子の絆の確認の場でもあるかもしれません。

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