「発達障害の回顧録③【メンタル崩壊の大学時代】」

私はアスペルガー症候群とADHDがある31歳です。
前回までは高校生までの時代をお話してきました。今回は、大学時代の話をしようと思います。

大学進学とともに地元を離れたこともあり、生活や人間関係はほぼリセットされました。高校まではクラスがあり、仲良しグループに混ざっていれば孤立することはありませんでした。また、小中学校からの同級生が一定数いたので、自分から人脈を広げようとしなくてもある程度のネットワークはできていました。

一新された環境のもと、私も友達作りに邁進しました。が、一時的に関係性を築けても大抵の場合は長続きしませんでした。授業で知り合った人に話しかけ、少しは仲良くなったと思っても、すぐに相手は別のグループに乗り移ってしまいます。

サークルやゼミにも入り、始めのうちは溶け込めるのですが、他のメンバー同士の関係が深まってくると、次第に集団からこぼれるようになりました。学生ならではのワイワイしたノリも苦手でした。たちまち居場所を失い、サークルは1年で脱退しました。

それまでに感じる機会のなかった対人能力の低さに、猛烈な劣等感を覚えるようになったのです。

大学生はこうした人脈作りの他に、様々な場面でコミュニケーション能力を求められるようになります。例えば、ゼミでは全員公平に発言が求められます。私は自分の研究の発表は得意だったのですが、相手の言うことを踏まえて意見や感想を言うことは極度に苦手でした。意見をまとめる以前に、相手の発言内容を正しく把握することができません。また、1対1では会話できても、複数人の会話になるとついていけませんでした。全員発言することが暗黙の了解になっているにもかかわらず、一言も話せないことも。同期や教授からの冷たい視線を浴びていました。

悩みは大学だけに留まりません。一人暮らしで仕送りを受けているにもかかわらず、私はしばらくアルバイトを避けていました。理由は子供の頃から、普通の人にわかることが自分にはわからなかったから。それゆえ、自分が働いたらトラブルメーカーになるであろうと察していたからです。私の内情を知らない親や知人は、怠けていると見て常に厳しい目を向けてきました。発達障害を知らなかった当時は人に不安を話すこともできず、抱え込むしかありませんでした。

しかし、3年生になるとゼミの行事でまとまった出費が必要になり、自分で稼がざるを得なくなりました。ここでやむなく雑貨店でのバイトを始めます。

働き始めた店ではマニュアル等が用意されておらず、すべて自分でメモして覚えることが求められました。学校では板書を書き写すだけでよかったのが、聞きながらメモを取る困難に直面しました。集中して聞こうとすると、どうしても手が止まってしまいます。

空き時間に一生懸命復習しても、予期しない場面が急に訪れるとたちまち取り乱しました。頭の中は常に混乱状態で、他の人に引き継ぐ前にも何かを忘れて店長からの叱責を受け続ける日々。レジの金額差異が大きいなど、様々な面で粗が目立ちました。

しばらくしても改善されないので、店長が本社の人事に連絡して危うくクビになりかけました。そのときは人事の温情でクビを免れましたが、4か月で自主的に辞めました。

大学に入ってから性格はどんどん暗くなっていき、3年生の秋には就職活動に突入。この頃にはすべての自信を失っていました。始めたことがすべて中途半端に終わり、自己PRで語れるものが何もありませんでした。

就活では面接やグループディスカッションなど、苦手なことばかりが続きます。「自己PRが弱い(ないに等しい)・コミュ障・自信がない」3拍子揃った私は一時面接すらまったく通りません。なぜか通った面接が1つありましたが、それ以外は全滅でした。

当時はリーマンショックの影響で就職氷河期でした。とはいえ、売り手市場であってもおそらく状況は同じだったでしょう。これから人生どうなるのか…絶望しかありませんでした。それこそ死ぬことも考えたほどです。

しかし、思わぬ展開で1社の内定をいただきました。誰かに助言をもらったとかは一切ありません。面接官がとても面白い方で、ギャグに乗っかっていたら気に入られ、内定につながりました。その会社に出会っていなければ、たぶん就職できなかったでしょう。まさに首の皮一枚つながったのでした。

ちなみに、私が発達障害という概念を知ったのは、この就職活動のさなかのことです。それについては、次回以降に記させていただきます。

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