「発達障害」が先進国で多く、途上国で少ないのはなぜ?/発達障害と呼ばないで

「発達障害」が先進国で多く、途上国で少ないのはなぜ?/発達障害と呼ばないで

” ADHD、学習障害、アスペルガー症候群、自閉症……。近年、「発達障害」と診断される人が急増しています。一体、どうしてなのでしょうか? 精神科医・岡田尊司先生の『発達障害と呼ばないで』は、その意外な秘密に迫った一冊。発達障害は「生まれつきの脳機能の障害」という、これまでの常識がガラッと変わることでしょう。そんな本書から、一部を抜粋してお届けします。 ※ ※ ※ ヒスパニックは発達障害が少ない 社会的なレベルで比較した場合、もう一つ重要なことは、ヒスパニックや途上国で、自閉症スペクトラムの有病率も上昇さ続けており、ヒスパニック以外の白人に追いつきつつあるものの、依然、三〜四割低い水準にある。 貧困や恵まれない境遇がADHDにとって不利に働くにもかかわらず、貧しい人々が多い途上国やヒスパニックでADHDの有病率が低いということは、養育環境という点に関して言えば、経済的な豊かさよりも、途上国やヒスパニックの社会に備わった何かが、養育環境を守る力をもつということである。途上国やヒスパニックの社会がもち、近代的な社会が失ってしまったものとは何だろうか。 ” 
 
出典元:” 幻冬舎plus “

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サイダーちゃん
サイダーちゃん
” “まずこの記事を読んで率直に感じたことは、先進国で生きる私達は日々様々な技術や知識経験を高めていく中で、生活水準の向上を推しはかり、他者との競争に勝ち抜くことによって、より安定した質の良い生活を送ることが出来ると、それが一般的に豊かに、幸せに生きるということであるとする風潮が、社会全体に蔓延しているように思われます。
当然生きていく中で、必要最低限の収入や生活、他者との関わり、現実社会で遵守せねばならないルールは存在し、その人自身や大切な家族を守る為、勤勉に競争社会を生きぬくことは正しい形といえるでしょう。
しかし、競争社会に生きるということが
生まれつき他者よりも社会的にハンディキャップを背負った人にとって、他者との競争を勝ち抜くことは容易ではありません。
比べて途上国においては、大多数の人は日々を生きていく為に必要な水や食料、家族を養っていく上での収入を得るのに精一杯で、自らの果たすべき役割を担って生きることが何よりも優先されるのです。ハンディキャップを背負った人でさえ、自らの役割をしっかり自覚し生き抜く為、家族の為に懸命に生きているのです。そこには、私達先進国の競争社会の中にある、より生活を豊かに快適にしようと生きる目的とは別の、支え合いお互いを尊重し生きようとする心の豊かさが、絆が確固として存在しているのです。
この日本に生きる私達は、そのほとんどが生まれながら生きる為に必要最低限のものが既に存在し、それが当たり前のことであると日々を過ごしています。豊か過ぎる生活が純粋に日々を豊かに生きることの素晴らしさを、盲目的にしてしまっているのです。
先進国に生きる私達が本当に豊かに幸せに生きるということは、他者を尊重し支え合いハンデを背負ってもなお懸命に生きる人達に自然と手を差し伸べられる、強きが弱きを支えることは尊いものだと、次の世代に教えられる社会にしていけるように、今一度一人一人が考えなければならない、そういう時代の節目にきているのかもしれないと感じました。” “

「発達障害」が先進国で多く、途上国で少ないのはなぜ?/発達障害と呼ばないで” に対して6件のコメントがあります。

  1. moimoigugu より:

    発達障害の特徴だけが独り歩きしてしまい、その特徴が出る人と接する側の人にその特徴とされる傾向が出やすい人と接する側の人の性格や対応能力で増える傾向にあると私も大いに思いました。柔軟性のある人であれば「発達障害」だと判断しない行動がとれるけれども、その対応能力や置かれる環境の中で様々な理由により十分な理解と判断ができない人が多い程、「発達障害」の枠に自分にとって扱いにくい人を分類する事で立場上、楽になる場面がある。まさしく先進国においては酷くなっていると感じる。皆個々の時間に追い回され、忙しい又ストレスを抱えてしまいがちな為人に対しての理解を深める努力や時間がないのだとおもう。発展途上国においては、生活が苦しい又いろいろな事において困難な環境下に強いられるケースが多いが希望を持ち、忍耐力が備わっているし人に対しての思いやりも自分自身の苦しさや辛さや悲しさを経験することで相手に優しくなれる。思いやりや理解が「愛情」として相手に対する柔軟性が生まれるから「発達障害」である人、もしかしたらそうであるかもしれない人もそう診断される段階まで深刻にならず、問題ないコミュニケーションとなるからだと同感しました。特に教師やスポーツのコーチ等教育の立場にいる人たちに忍耐力が先進国は低いと感じる。その理由は彼らが時間に追われ、不満やストレスをコントロールできていないからです。そのために、「発達障害」とされた子供たちがいる事実は否定できないと思います。

  2. DJANGO より:

    数が多い少ないではなく、発展途上国ゆえ「発達障害」という概念に関して様々な点で理解・学習不足なだけで
    「当人が発達障害」と認定されない場合が多いだけで潜在的にはそれなりに存在している、という気はする。
    ただ発展途上国では「先進国ではなく、途上国だからこそ自分の力で切り開かねばならない」局面がそれなりに
    多く、そのため仮に「発達障害」であったとしても「自然に身についた生活力」でそれをある程度カバーできる
    余地があるようにも思える。

  3. うらうら より:

    発見されているかどうかは、そこに「発達障害」と名付けなければならない事情があるからではないか。途上国にも潜在的にはいるはず、というご意見はあたっているかもしれないが、途上国ではべつにとりたてて「障害」というレッテルは必要ないということではないだろうか。たしかに途上国の「絆のある社会が子どもの育ちを守っているので、発達障害が生まれにくい」というこの筆者の説にも一理ある。健全な愛着が守られていれば発達障害にはならない、とこれは非常に端的に言っているので危険かもしれないが、そういうことがおっしゃりたいのだろう。
    『岩合光昭の世界ネコ歩き』という番組をご存知だろうか。あれを見ていつも思うのは「先進国の猫は太っていて、途上国の猫は痩せている」ということだ。GDPが猫の体重に比例しているのである。しかし重要なのは「その猫が幸せかどうか」だ。途上国の猫は好きに歩き回り、家の中に閉じ込められることもなく、近所の人全員に可愛がれらていたりするが、食べ物は貧しい。病気になっても獣医にかかることはないだろう。ワクチンも打っていないだろう。一方、先進国の猫は首輪をつけられ、生肉など贅沢なものを食べているが、衛生的で美しい家の中で一日中共働きで出かけているご主人を待っているのかもしれない。しかしここで、どちらが良くてどちらが悪いと言ってもしかたがない。カンボジアの猫がニュージーランドに行くわけにはいかないのだ。
    『置かれたところで咲きなさい』という意味の言葉を思い出す。発達障害とラベルを貼るか否かよりも、個々の子供あるいは人間が、生きやすさを感じられる社会であることが大事だと思う。子育てがなにかと困難に感じられ、それが発達障害を生みやすくしているとしても、先進国はもはや途上国には戻れないのである。だとしたら先進国においては、社会全体でケアをより充実させ、生きづらさを取り除くべく、人々の努力が求められているということだと思う。

  4. makimaki より:

    先進国の子育て環境は発達障害になりにくいという話は初めて聞いたので驚きです。たしかに
    日本でも発達障害の子供は明らかにだんだん増えてきていますよね。子供との触れ合いか不足しているせいなんでしょうか…?子育て中に便利なスマホやパソコン、テレビについ頼ってしまいますが、気を付けようと思います。

  5. なっ君 より:

    発達障害は先進国で多いというのは、そのようなポジションに追いやられてしまっているという側面が強いみたいです。生き抜かなければいけない途上国ではすべての人間に役割が与えられていて、必要とされている事を感じました。

  6. あう より:

    まだ発見されてないだけで潜在的にはたくさんいるはず。

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