発達障害者支援法の限界とお願い~当事者櫻餅さんのエッセイ~
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もくじ
「行政にはできることとできないことがあります」
この言葉を、ほかの人達は聞いたことがあるだろうか。 私は全国にマニュアルがあるのかというほどいろいろな行政職員か ら聞かせられた。理由を聞くといつも「理由はありません」「 行政が決めたことです」と答えになっていない答えが返ってくる。 行政が施策をできるかできないかを判断するのは法律が基準になっ ていなければならないのに、法的な根拠を示してくれない。 こちらにはある。障害者差別解消法、発達障害者支援法、 そして私が住む鎌倉市の共生条例( 鎌倉市共生社会の実現を目指す条例・2019年4月1日施行) だ。
※鎌倉市共生社会の実現を目指す条例
https://www.city.kamakura. kanagawa.jp/chikyo/jourei.html
https://www.city.kamakura.
私は発達障害者である。生来のASDとADHD、 そしてそれに伴う後天性の精神疾患があり(二次障害という)、 精神障害2級の手帳を持っている。 この併発はどういうことかというと、 ASDとADHDは相反する特性なので、 喩えるとものすごく相性のわるい2人が同じ肉体を共有していると 思ってほしい。嫌じゃないですかそれ。私は嫌だ。 ふたつとも生来の特性だから治らない。
ASDの2大特性は
①対人交流とコミュニケーションの質が異常
②こだわりが異常
②こだわりが異常
②は「しつこい」「完璧主義」「同じ事を繰り返す」 という欠点として鮮やかに浮き上がるから嫌われる。
さらにやっかいなのは、併発するADHDは②とは真逆の「 すぐに忘れる」「ずぼら」という特性だ。 相反するふたつの特性が入れ替わったりドット絵みたいに混ざり合 ったりする。ただし、私の場合はクリームのように乳化はしない。 乳化できてそれが継続すれば楽になるのかもしれないけれど、 完全に混ざり合うことはない。この相反する特性が交互に、 或いは同時に示現するものだから他人は違和感満載になり、引く、 或いは離れる。いや、もっと正確に言うと排除する( 彼らの表現では《距離を置く》)。
さらにやっかいなのは、併発するADHDは②とは真逆の「
①についてはADHDも質は違えど異常という点では同じだ。
これに二次障害が加わり、 私は独力では友人1人作ることすらできない。
正確にいうと、一時的に知人とか友人まではできても、 この特性のためにことごとく人間関係が壊れてしまうのだった。 診断以前は性格の問題だと言われたし私もそうと思っていた。 どこが悪いのか全くわからないけれど、 自分は嫌われる性格なんだと自覚はしていた。 つらい現実だけれどどうしようもなかった。 性格を変えるように努力したけれどまったく変わらなかった。
正確にいうと、一時的に知人とか友人まではできても、
大人、 それも中年以降になってから性格ではなく脳の障害でこうなる、 自力で治すことはできないと言われて唖然とした。
つまり私が嫌われるのは、孤立するのは、 私が原因ではあるけれど私に責任はないということ? つまり、 脳性麻痺の人やハンセン病の人達が理不尽にいじめられるのと同じ ってこと?
つまり私が嫌われるのは、孤立するのは、
ものすごく腹が立った。子どもの頃からの寂しさ、苦しさ、 自分以外の人類が全員宇宙人のように理解できなかった世界に対す る違和感--
これらは全部私の脳のせいだったの?
呆然とする私に、 医療は淡々と障害手帳と障害年金の申請手続きを進めていった。 手帳をもらうということは私は障害者になるということで、 ほんとうにいいのだろうか……迷いに迷った。 何に迷っているのかもわからなかった。 当時相談していた法務局の職員と人権擁護委員から「 今まであなたが社会から排除されていたのは、 あなたの性格だとされていたけれど、 手帳を取得すれば性格ではなく脳の障害からの言動だと認められる 。障害だとわかれば、社会はもっとあなたに優しくなりますよ」 と言われた。それで障害者として生きることに決めた。
のだけれど--
手帳をもらっても私は孤立したままだった。否、 前よりもっとひどくなった。病状が悪化したこともあるけれど、 障害を知りながらいきなり私を無視する行為をする人達が出てきて ショックを受けた。 しかもそれが議員という公人だったのでよけいにショックだった。 私は自殺未遂をし、病状は悪化した。今もそれは続いている。
先述したように私は自分1人では人間関係を築けないからである。 それと一般人がこの障害について知識がないため対応が健常者目線 になり異端を排除するしか選択肢を持たないこともある。 そこを埋めるために冒頭の法律や条例があるはずなのだが--
先述したように私は自分1人では人間関係を築けないからである。
「行政にはできることとできないことがあります」 と事実上の支援の拒絶になるのである。
彼らの言い分はこう。
彼らの言い分はこう。
「行政は個人の交流には立ち入れない」
「でも、私の障害はコミュニケーションの障害なんですよ。 ふつう人って行政とだけつきあうものじゃないでしょ。 ほとんどが個人の交流で成り立ってますよ」と何度も訴えた。 でもこの言葉をくりかえされるばかりなのだ。 鎌倉市には障害者に向けた移動支援がある。 障害のために外出がままならない人達への介助サービスだ。 しかし鎌倉市はこれを精神障害者には適用しない。 私は出先でトラブルが多い。 トラブルになった時に説明するとさらにトラブルが激化する。 だから移動支援を申請したら断られた。
「階段が上れないとか車椅子で切符が買えないとか、 そういう人達のためのサービスだから」
と言われた。 しかしガイドラインには身障者のみ適用とはどこにも書いていない 。それを言っても「行政はそういう解釈で運用している」 の一点張り。県に言っても国に言っても自治体判断と逃げられる。 移動支援でさえこうなのだから、 コミュニケーションの支援など夢のまた夢である。 制度はあっても機能しない。 しかし機能しない制度とは何と虚しいのだろう。
発達障害者にいちばん必要なのはコミュニケーション支援だ。 アドボカシー支援と言ってもいい。 アドボカシーとは権利擁護のことだ。 自分の言いたいことをうまく表現できない、誤解されやすい、 これが発達障害の特性の根幹なのだから、 人権面でも福祉サービス面でも、 これなくして発達障害者支援はありえないのに、 すっぽり抜け落ちている。行政にやる気はまったくない。 少なくとも鎌倉市には、ない。
私はこれを絶対に変えてもらいたいと思っている。 そうでなくては私は生きていけない。